「天気の子」について語ろう※ネタバレ注意
「天気の子」についてのネタバレがあります。注意してください。
新海誠監督の最新作「天気の子」を観てきました。
率直な感想としては、まぁ無難かなって感じでした。めちゃくちゃ良かったわけでも悪かったわけでもなく、「君の名は」という高すぎるハードルを緩やかに自分の飛べる高さに調整したみたいな映画だった。「君の名は」を超えたかどうかについては個人の好みの問題でしかないかなぁと。
ただ「君の名は」に比べるとわかりにくかったというのも事実、ラストシーンも賛否が別れるというのも納得はいく。
「君の名は」では隕石が落ちるからその前に好きな女の子を助けようという目的と結果が非常にわかりやすく書かれていた。
一方「天気の子」はどんな結果になるかわからないけど好きな女の子を助けたいという自己満足が描かれている。
どちらも目的は達成される。がしかし瀧と三葉は受け入れられ、帆高と陽菜は賛否を持って迎えられる。
言うなれば「君の名は」がゼロをプラスにする物語だったするならば、「天気の子」はマイナスをゼロにする物語だったからではないだろうか。
どうしてこうなったのか、端的に言うならば「天気の子」という映画が帆高に感情移入をさせる余地を与えなかったからだろう。
「天気の子」では新海誠映画特有の透明感あふれるイラストによって現実の東京の街が精巧に描かれている。私は東京都民ではないのでよくわからないが都民ならばその絵の中に日常を感じたりもするのだろう。
何気ない人々の日常風景が描かれる反面、メインである帆高と陽菜に関しては一切のバックボーンを描かれることはない。なぜ帆高が家出したのか、陽菜の両親はどうしたのかetc…、謎は謎のまま物語は幕を閉じる。
帆高と陽菜だけが「日常」を描かれていない。つまりこの映画は「感情移入できないからつまらない」のではなくそもそも「感情移入させるように作られていない」のである。そのため一観客である我々が帆高の感情を理解することは決してできない。
だからこそラストシーンのセリフ「僕たち‘’は‘’大丈夫」なのである。
たとえ世界がどうなろうとも、誰に理解されなくても「僕たち(=帆高と陽菜)」は「大丈夫」、だって「愛にできることはまだある」のだから。
ただ唯一感情移入できるとしたら須賀という男なんだよ。帆高に大人になるよう諭し、たかが子供の恋愛で世界が救われるなんてありえないと鼻で笑う彼だけが観客の分身としてスクリーンの向こう側に存在していた。そんな彼も「大事なものの順番」を入れ替えることに成功し、帆高を助けることで物語の舞台へと上がっていく。
「天気の子」の真の主人公は須賀圭介という一人の男ではなかっただろうか。
ここからは余談。
上映終わってスクリーンを出たときに最初に確認したのは「今何年だ!?」、「これは本当に2019年の映画なのか!?」ということだった。
出るわ出るわゼロ年代の亡霊による投稿が。ゲラゲラ笑いながら見てたよ。
ただ確実に言えるのは「セカイ系」なんてオタク用語を持ち出して語る我々こそが異端なのであるということ。「セカイ系」という言葉を知らなければデート映画としての十分楽しめる映画だったということだね。
あと一つ上映中に思ったのは、これ「凪のあすから」で見たことある構造だったね。
とにかく個人的にはいい映画だったと思うからロングランで秋頃まで上映してるならもう一回観に行ってもいいかなぁ